ams

a tokyo based manicurist, hatsuki furutani's salon works from a.m.s. ebisu place in shibuya

2014-03-31

古谷葉月のエメラルド 美術的裸婦の時間

a.m.s.恵比寿プレイスです。

こんにちはー。今日のネイルは緑の裸体で素敵だね。エメラルドの指環を嵌めた裸婦。

私解説者マサ子(仮名、39歳)は こないだ両親がちょっとした 引っ越しをしたから 手伝いに実家に帰ったら 小学生の頃の通信簿が出てきた。おかしいんだよなー。あたし小学校の頃って勉強できた記憶があるっていう か できたはずっていうか できた。と思ってたんだけど 記憶がすり替わってたらしい。せいぜい 国語が「5:すすんでいる。」 社会か音楽か美術がたまに「4:すすんでいる。」なんだけど むしろ大抵が「3:ふつう。」で 体育はいつも 「2:ややおくれいてる。」だったみたいなんだよ。ていうか事実そうだった。らしい。しかしさ この「2:ややおくれている。」とか 「1:おくれている。」っていうのは 何なんだろうね。今の小学校はそういう評価軸じゃないのかな?てかさ 「国語・算数・理科・社会」の 座学はさ 大抵の場合はさ 東大に入ろうってんでもない限り 「成績が悪いのは勉強しないから。」でしかないはずだから 「勉強したトータルの蓄積時間が人より少ないので 進み具合が <おくれている。>」っていう評価も理解できなくもないんだけど 「美術・音楽・体育」っていうのはさ そもそもの個人の資質によるわけだから 「おくれている。」とか 言われても 困っちゃうよね。だってあたし 跳び箱なんて 絶対飛べないし 逆上がりなんか絶対できないし 100mを20秒以下で走れって言われてたってできないし 大縄跳びに入れって言われたって入れないし バスケのシュートをしろって言われたってできないし バレーのサーブをしろって 言われたって できないもんは できねえ。なので 「おくれている。」って問題じゃないし むしろ 遅れているとか 進んでいるとかいうより 「できない。」とか 「そもそも路線が違いますね。」とか 「そもそもできないのね。」とか の方が全然納得性が高いんですけど。普通にできる人と比べられて 「おくれている。」って 言われても 大層心外なんだけどなあ。

それでは。