a.m.s.恵比寿プレイスです。
こんにちわー。お久しぶりに爪の絵画、絵画の爪。わたしの好きなシリーズ。
今までもこのシリーズはあって、朝日のように爽やかな高層ビル群とか、美術の時間とか、アリゾナの不死鳥とか、いろんな爪の絵画がある。
はっちゃんから画像をもらった時、わ~このシリーズ久しぶりだなー ブログ何書こうかなー ♪おっひさしぶーり~ねー とつい世代柄歌唱するわけで、歌唱しつつ顔洗って歯磨いてコンタクトを取って ♪なんだか怖いぃぃぃ~~ とか 良い気持ちで歌ううちに、どうしてなんで 別れた人に会うのは雨の夜なのかと。普通に生活してりゃ、別れた人に町で会うこともないし、会えるような気がすることもないし、そんな気がしてならないなんてことも全くないし、ましてや、あの日と同じ雨の夜の渋谷で傘もささずに赤坂なんてこともないし、見覚えのあるレインコートを黄昏の駅で見るなんてこともさらさらないし、髪の形や背広の好み少しもあなたは変わっちゃいないのに、2年の時の間にあなたのまなざしと私のこの髪の長さが変わるってこともない。なのにどうして、雨が降る都会の夜の町、東京砂漠のネオン街、しかも新宿とか赤坂とかそういう渋目の町で別れた人に会える気がするんだろうね?都会とかネオン街とかいう言葉よりも盛り場って 最近言わないけど、その盛り場とか歓楽街のフロアは青くホノ暗い東京ナイトクラブがある街に雨が降ってる夜に行くと、おそらくきっと別れた人に会えるんだろう、という日本人の共通認識があるんだろうね。てことは、「別れた人に会えるような気がするシチュエーション」というのは日本人にとって「雨の夜の都会の歓楽街の酒場」なんだったら、アメリカ人や中国人やアフガニスタン人やマレーシア人やフランス人やロシア人やケニア人やアルゼンチン人にとっては、どういうシチュエーションが「別れた人に会えるような気がする」シチュエーションなんだろう。たぶんアメリカはあれだ、例のマディソン郡の橋みたいに、オハイオの片田舎町郊外の町の夫婦が、平凡な曇りの日曜日の午後に田舎町のウォルマートかなんか行くと、別れたロバートを見かけて、人妻であるところのスーザンはウォールマートの駐車場でスーパーのカートにもたれて4WDのピックアップトラックにもたれて一人涙をかみ殺して、デリカシーの無いカウボーイハットを被って赤い顔をした夫のジョーが戻ってくるまで涙をこらえて崩れ落ちるのがアメリカ人の♪別れったあ人に会あああったーー なのかな。フランス人はどうかしら。(♪BGM、旅番組のおしゃれなパリの朝市の時に流れる変なアコーディオンのシャンソン)やっぱ セーヌ川のほとりの夜のパリの16区で、別れた若い男の芸術家のジャンピエールとブルネットの学生のアンヌマリーが、♪別れったあ人に会あああったーになるんだけど、すでにカロリーヌは年上の自由恋愛主義者で妻帯者のオーギュスト52歳大学教授(妻、イネス32歳)とつきあってて、めでたく愛のジュテーム4角関係になる。別れた人に会って唯一発展するパターンじゃないか。お隣韓国はどうかな。どう考えても南大門の裏の屋台でタチウオ鍋でも食ってたら別れた人に会うと思えないので、ヨンドンサリの的なものでもないとすると、百恵ちゃんの赤いなんとかみたく、孤児院の前に捨てられた双子のうちの一人セヨンと運命の出会いをしたけど運命に翻弄されて引き裂かれたジュンギがパリから戻ってくるんだけど、たぶんセヨンちゃんがきっと白血病になってるとか失明してるとかで、汝矣島のおしゃれな高層ビルの前の遊歩道で夜の漢江の強風にあおられながら♪別れったあ人に会あああったー、かあるいはここはもういっそ、海辺のサナトリウムで運命の再会をするんだと思われるんだけど、わたしは韓国ドラマを見たことが無いのでもしかしたら、わたしのこの脳内韓国ドラマは何一つあってない可能性もある。アフガニスガンは、色々妄想したら、戦火に引き裂かれる若い二人の悲劇の妄想が膨らみすぎたので自主規制。
まあ何というの、卑近な例に戻すとむしろ私個人の場合だと、別れても好きな人に雨の歓楽街で会ってやけぼっくいに火がボーボーっていうことは現実的でなくてむしろ、お嫁なんかにゃ行かないわっていうより お嫁なんかにゃ行けないわ、ていうか すみません お嫁に行ってません。てか行く気配もありません。
それでは。